「さて、全国的にもお昼です。店屋物を取っても宜しいかと思いますが、ウスノロはどうですか」
「お……」
生活音こそ耳に入っていたが、永遠とも思える時間の最中さなかに話し掛けられたこともあり、反射的に口を動かしてしまった。ゴツゴツと重い音を立てて残り少ないビー玉が全てフローリングに転まろび出る。
「あっ、ほご、ごめんなさ、い。返事をしようと思っただけで」
「良いんですよ、吐き出させようと思って話し掛けたんですから。えーっと残ってたビー玉は3個ですか、締まりのない口ですね。その口で咥えられても寺本君は満足できなさそうです。とても素敵な方なのに、御気の毒に」
腰を折った姿勢ゆえに頭に血が偏り、中腰の姿勢に悲鳴を上げる腰を反射的に上げようとして、手錠足錠に阻まれたために、大きく重心を崩した。壁にしこたま側頭部を打ち付けた挙句、床に倒れ込む。ミナトくん、私の彼。彼だけは倦み疲れた私を癒してくれた救世主なのだ。ここ数年の人生で、彼無しの生き方は見出せないほどに。
――そう。付き合い始めの頃、私の彼である寺本湊斗、彼のものを口を用いてどうにかしようとしたことがある。私に才能が無いのか、彼の反応は悪かった。その後何度も試して、私には少なくとも口で彼を満足させることは出来ないと悟ったのである。このコンプレックスなんて、彼以外知る由も無い。この事実を、星越が何故知り得たのか。羞恥、屈辱、褥を他人に知られる恐怖。だから、反射で動いてしまったのだ。
「痛がる暇があったら、早く立ち上がって、ほら、はい、手の鳴る方へ……」
寒い部屋、露出の多い服。焦れもあって藻掻けども藻掻けども立ち上がれず、何度も床に身体を叩き付けてしまう。数分、いや、おそらく30秒程度の沈黙の後、床に貼り付けた顔の上から圧力が加えられた。肌に貼り付く感覚と、細かく蠕動する物体の感触、そして少し強い汗の臭い。星越の脚で頬を蹂躙されている。
踏みしだかれると共に、目隠しであったスカーフが顔から取れて、眩い昼光が瞳孔に注ぎ込む。
この女は「女の匂い」が強い。男という生物は女よりも鼻が弱いらしく、或いはフェロモンとも呼べる物質に脳が曇るらしく、同性である我々からすれば強烈な体臭でも色香の一種として認識するものだと、星越の異常な持て囃され具合について、女子会で話題に上がった記憶がある。その臭いを香水で隠そうともしないこの女は、こともあろうに足の指を私の口の中に。
「ビー玉3個。食事抜きでも良い惨憺たる結果ですが、今朝は早かったので餓ひだるかろうと思います。そうだなー……8枚切り食パン2枚をあげちゃいます!いひひ、トーストが良いですか?」
「お願い、し、ます、けっとうち」
顔を脚で躙るたびに、目隠しであったスカーフが顔から剥がれ落ちて、羞明の中で昼光を背負った星越松生。マツオ様が浮かび上がる。
小柄な体に無機質な笑み、大きな瞳に長い睫毛。神々しささえ憶えるその姿に「ありがとうございます」とさえ言いそうになる。
朝食を摂る習慣がある私だが、体質に由来する低血糖で昼食が遅くなると意識が朦朧とする。今は、血糖値の低下が疲労に覆い被さり今にも昏倒しそうだ。意識は疲労と苦痛の中に差し伸べられた一条の光に縋る気持ちで一杯になっている。星越松生マツオ、マツオ様が神々しく正午の昼光を受けてリビングの真ん中で姿勢よく佇んでいる。
「いひひ」と奇妙な笑い声を上げて板張りの床に薄い食パンが二枚落とされた。
「ステイステイ、手が使えないのなら、飲み物もね」
7枚切りの食パンの袋を小脇に抱えたマツオ……様が、小さめの食品保存容器の蓋を開ける。逆光の中で、長い睫毛の瞳が意図的と思えるほど大きく歪んだ。
匙で掬い上げられた何某かが、食パンの上へペチャリ、ペチャリと音を立てて落下する。
「よく練った引き割り納豆ですよ。食通がよく引用する割に、妙に嗜好の偏った北大路魯山人翁曰く『随時醤油を数滴加えつつ極力ねりかえすべし』とあったので、フードプロセッサーに入れて念入りに攪拌しました。どうですか、鈴ちゃんも夕飯が和食なら必ず食べるくらいお好きな納豆ですよ、栄養も抜群です」
食パンに乗った黄土色の排泄物にも似たペーストが、昼光を受けてデラデラと輝いている。確かに納豆は好物の一つだ。だが、手が使えないまま床に落ちたこれを食えというのか。
食パンとその上の大豆ジャムを睨んでいると、星越が小さく「いひひ」と愉快そうに笑った。私は「冗談ですよ、昨日みたいに一緒にご飯を食べに行きましょう」という言葉を心のどこかで期待していたのだろう、思わず彼女の顔を見た。
「あっ。は、あははは、そうだよね。ご飯食べに行こうよ。この辺だと、美味しい店も何件かは知って……」
「両手が使えませんでしたね、これはこれは無作法を。犬にチョコや玉葱を与えてはいけないように、ウスノロには相応の調理が必要でした」
そう言い放つと、星越は大きく息を吸い、床の上の食品に唾、否。涎を垂らし掛けた。
これで満足したかと思いきや、ペットボトルを取り出して、破顔一笑して言う。
「ウスノロは会社で鈴ちゃんとしてキャリアウーマンしてるとき、コーヒーをガブガブ飲んでますよね。甘くてミルクたっぷりのコーヒーがお好みだったと記憶しています」
星越の白魚の如き不気味な白さを有する指がペットボトルをパキリと開封した。
「カフェイン中毒というより、砂糖中毒なんじゃないですか。私ならあんな甘い泥水、死んでも飲みたくありませんけどね。ただ、ウスノロは犬なので泥水でも啜ってるのがお似合いです」
厠はばかりを想起する音を立てて、納豆パンの上にベージュ色の液体が降りかかり、パンに吸われきらなかったカフェ・ランベルセがフローリングにその版図を拡大していく。
星越を見上げると、首を横に振ったが、その意図を察しかねる。右手の人差し指を真上に立てて子供を諭すように軽く振った。
「洋食にナイフが付いてくるのは、手掴みで千切って食べるなという意味です。和食にナイフが付いてこないのは、厨房で調理を全て終えるからです。旁なんにせよ、ウスノロは手が使えない。ということは、私のお手伝いが必要ですね」
抗議の声を上げようとした刹那、大きな音と共に星越の素足が床に山積した食品の上に踏み降ろされた。餅を搗く杵の如く床に叩き付けられる足が、パンと納豆とコーヒー牛乳の混合物が混然一体となって粘り気を増していく。
笑顔で、渾身の力を込めて地団駄を踏む星越の姿に、実は今まで何となく感じていた人間味を失った姿に、初めて「狂気」を見た気がする。
私はこんな人間に良い様に操られているのかと思うと、今すぐ逃げ出したい気持ちになった。しかし、手錠は両手両足を拘束しており、何よりこの眼前の狂人にこの状況で抵抗する恐怖が全身を支配する。
汚れた白い足の甲で吐瀉物と見紛うばかりの食べ物だったものが器用に掬われる。
星越の足部が床に臥した私の口元まで近づいたが、ふっと離される。普段は大好きな納豆の匂いが、星越の体臭やほかの食品の香りと混交し、酷い悪臭に思えた。
「食事するだけじゃ詰まんないですね…… 嗚呼、そうだ」
ぺちゃりぺちゃりと音を立てて星越が私の背後に回ると、手錠だけが外された。かと思うと、身体の前で手錠が再び両腕に嵌められる。
「私がご飯を食べさせている間、乳首でも弄いじくってて下さい。あ、別に脱がなくても良いですよ。その馬鹿みたいな露出の服の下から手を入れれば造作もないことでしょう」
「何言ってんの!?頭おかしいんじゃないの、変態。やっぱり私の身体が目的で」